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| 私の開業物語/2004年7月号 |
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| 延期はしたけれど…収穫は大きかった! - 私の開業物語 BY 鈴木紀美枝 | |
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パン作りの仕事に就いて3年。
今年の初めパン屋を独立開業する決心をしました。 これからお話しするのは、資金ゼロで42歳の私が開店を目指して奮闘した1カ月間の記録である。 結果を先に言ってしまうと、開店ができず、計画を延期した。 成功例や繁盛話にしかお目にかかれない「ブランスリー」の中では例外中の例外。 恥をしのんで紹介します。 |

| 初めに店舗の契約ありき…
1月中旬のこと―。「ウチの父親が亡くなり、店をたたんで貸すことになりました」と近所の知人。その店というのは私のアパートから歩いて1分、駅前商店街のメイン通りを曲がって4軒目にあり、「この辺に店を持ちたいなァ」と以前から思っていた場所にある。
「実は」と私が切り出し、店の中を見せてもらうことにした。3階建ての1階に7坪の店舗が2つで、仕切りをとってひとつにすることも可能。2、3階は家族の住居になっている。たたんだ店というのは天ぷら屋で、フライヤー、作業台、冷蔵・冷凍庫があり、半分居抜きであった。私は、ちゃんと開業するメドがついたら正式に申し込むことにした。このときはまだ開業できるかどうか半信半疑だったのである。 私が一生の仕事としてパン屋を志したのは37歳の時。それまでの私は、自宅のオーブンで、パンやケーキをたまに焼いていた。20年ほど前に初めて焼いたバターケーキやパンはカチカチ。その頃はいい本もなかった。 8歳年下の妹は幼い頃からケーキ屋に憧れ、製菓学校を卒業して京都のホテルに就職。洋菓子製造からパンに移り、その後、ホテルの経理に転属。中学家庭科の非常勤講師を経て現在はパソコン教室の先生である。妹がパンの仕事をしていた頃も私はそれほどパンには興味がなく、実際に自分が仕事としてパンに携わってみて初めてその気になり、製菓学校にまで入学するのだから、人生は不思議だと思う。 さて、ある人に相談してみた。「物件が見つかったからって、それは順序が逆だよ。大体、お金だって何百万じゃないんだよ。何千万円てかかるんだから。それに一緒にやる人がいるの?」という答えであった。 気を取り直して私はもう1人に電話。「僕が独立する時は十人が十人とも反対した。五分五分、いや四六で自信があって、失敗したときの覚悟があるんだったら自分だったらやる」と言うではないか(のちに「無駄なことさせちゃったかナ」と言ってたけどね)。自分の考えに賛成する人の言うことにしか耳を貸さない性格の私は、これで腹が決まった。 一方、店舗の方であるが、あるとき大家さんから連絡があり、「不動産屋から店を見たい人がいると言ってきたけどどうする?」とのこと。私は「借り手がつきそうだったら、そちらを優先してください。私の方はまだメドが立っていませんから」と言って電話を切った。 しかし、他の人に押さえられてしまったら、と急に惜しくなってきたのである。男に対してもライバルが出現すると俄然燃える私・・・。「今晩伺います」と電話をして、なけなしの22万円を引き出し(家賃2か月分)「1〜2カ月待ってください」と仮契約したのであった。 |

| 「オーナーさんです」と紹介され…
大家さんは自営で設備の仕事をしていて、私を業者に引き合わせてくれると言う。自己資金がなくて、オール借金だということは少し控えめだが伝えてあった。借金するにも、いくら必要かハジキ出さねばならないのだから、業者さんとの話し合いは必須だった。 一緒に行った先は、配管業者の事務所で、大手厨房メーカーの営業担当者、工務店も来ていて、5人に対して商談をすることになった。横に座っている大家さんが、「こちらがオーナーさんです」と言うのを聞き、緊張して身が引き締まるのを感じた。だって今までに、言われたことのないフレーズだったから。
私は店のコンセプト、内外装のイメージ、予算などを話した。店舗に残っている設備以外の機械は中古品を購入することを伝えると厨房メーカー氏は「ウチの出番はなさそうですね」とガッカリしていたが、その彼だけがパン屋を手掛けた経験があって、必要な情報を提供してくれたおかげで、話はトントン拍子に進んだ。オーブンの動力が22kということには皆さん驚いていた。融資を受けるために使う、実際の2倍以上の総額になる見積もりを作ってもらうことにしてその日はお開き。最後に、ひげが豊かな熊のような配管屋社長が言った。「新しくパン屋さんが開業して成功するように、みんなで力を合わせましょう」。その言葉を聞いて私は胸が熱くなった。 |

| あなたはこの仕事に向いていない!?
話は5年前に遡るが、3つの仕事を掛け持ちで働いていた私は求人チラシを見てパン屋で働くことになった。
そこは女性が共同経営している小さなお店で、私も共同経営者の1人として25万円の出資金を払って働き始めた。最初はフィリング作りからスタート。 2歳の子供を朝7時に保育園に預け、8時からサンドイッチ作り、ドーナツを揚げながら、その日に使うクリーム類を作る。野菜を切って作るフィリングやカレー、あんこ、コロッケも全部手作り。最後にプリンを作って終わり、というスケジュールだった。 面接の時に「ウチの店では自立できません」と言われた通り、多い人で週5日働いて月収10万円。見習いの私は時給500円で1日6時間分を限度に支給。当然14時には終わらず、夕方までかかっていた。 パン生地には触っていなかったが、とにかく仕事が面白かった。私は「この仕事で行こう!」と思い、福祉施設その他の仕事を辞めることにしたのである。 そんな私の思いとは裏腹に、先輩方は私の態度に相当腹を立てていて、「態度を改めなければ辞めてもらう」と言われてしまった。素直に言うことを聞かず、態度がデカイからである。「ハイ、ハイって言ってりゃいいのよ」と忠告してくれる先輩もいた(この「ハイ、ハイって・・・」のフレーズはその後のパン屋でも聞くことになったが、ホントにそれでいいのか?と今でも思っている)し、「色んな人で運営していくべきで、辞めろというのは間違っていると思う」と援護してくれる人もいたが、「全く変わっていない」と言われ、辞めざるを得なくなったのである。 私は変えたつもりだったが、少々逆らったのを取り立てて判断したのであろう。私は全員が参加する会議の席で泣き、泣きながら夜道を30分歩いて帰った。 会議の中で何人かのメンバーに「あなたにはこの仕事は向いていない」と言われ、会議という公の場では、誰一人味方になった人はいなかった。 最後に「あなたはこの店には異分子だった」と言った人が、最も私の立場を言い当てていたかも知れない。 友人は「3カ月で向いているかどうかなんて分かるの!?」と驚いていた。 その後も、この記念すべき店には顔を出し、パンを買いつつ、近況報告をしている。「『どっちの料理ショー』に出た店にいます」とかネ。 その夜は涙が止まらなかったが、翌日には近所の製菓学校の願書を取りに行った私であった。 |
| 理想の店
あれから5年。製菓学校を卒業し、色んなオーナーのもとで働いてきました。
いままでの経験をもとに、自分のお店のスタッフの採用と雇用関係について思いをめぐらせた。 求人の貼り紙には「やる気のある人募集」(月並み・・・)。 面接では――履歴書はナシ。そして私は言う。相手が未経験者であっても、「あなたは私と対等です。労働の対価として賃金を支払うかわりに、あなたは労働と時間を提供する。上下関係はないのです。私も不完全な人間で至らぬ点も多い。職人としても半人前。あなたは今までの経験を生かし、私に対して欠陥や改善すべき点をどんどん指摘してほしい。私の要求や指示に疑問を感じたら、すぐに発言してください。お願いします。イエスマンは要らないのです。そして自分の店のつもりで、オーナー精神で働いてください。自発的に生き生きと。私も日々成長、進歩したいし、あなたにもそうなってもらいたい。そんな風に働いてもらえますか?」 ――甘いかな・・・? (つづく) |
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