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| 特集/2002年1月号 |
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| 開業までの全記録 - 迫真のドキュメンタリー[Stories of 2 Bakers]
独立開業を夢見て、日々修業に励んでいるパン職人は多い。
しかし、開業までの道のりは平坦ではない。 「資金はどうするか」「いい店舗物件を探せるか」「品揃えはどうするか」「はたして自分のパンは受け入れられるのか」 ここに、独立開業を果たした2人のパン職人の物語がある。 |

| パンへの思いを感じたとき、何かが変わった。 - ふるーるの大嶋孝之さん
修業中のベーカリーへの行き帰りの車の中から、「ここで商売をしたい」と思わせる物件が見えた。
しかし、300メートルと離れていない場所に1日50万円を売る繁盛ベーカリーがある。「無理や」と思った。 何もかもが中途半端だった 大阪府岸和田市のベーカリー、ふるーるの大嶋孝之さん(28)は、大阪の製菓専門学校を卒業後、洋菓子が作りたくて、大阪のある洋菓子とパンの店に入社。しかし、配属されたのはパンを作る部門だった。欲求不満の日々が続いた。 あるとき、パンをたくさんトレーにのせた人がレジに大勢並んでいるのを見た。「パンも売れるんや」と思った。 ベーカリーBのオーナー、O氏が中心になって開いていたパンの勉強会に参加。O氏のパンに対する姿勢に惹かれた。 最初に入社した店で約5年間働いたが、製パンの技術は身につかなかった。 「何もかもが中途半端だ」とあせっていた。「オーナーが洋菓子の人やから、パンにはあまり関心がないんや」と思った。 洋菓子職人にあこがれていた自分はもうなかった。「O氏のようにパンが作れるようになりたい」と強く思うようになっていた。 ベーカリーBで人を募集しているという話を聞く。しかし、自信がなかった。 「自分はもう4年もパン職人として働いている。それなのに…」 そう思うと、ベーカリーBの門をたたく勇気が湧いてこなかった。 1年後、同じ勉強会に参加している別のベーカリーのオーナーから「このままやったらあかんで。Oさんにみっちり仕込んでもらいや」と言われる。大嶋さんは勇気を振り絞った。 O氏のパンに対する思いを感じた ベーカリーBでも、手取り足取りの指導はなかった。しかし、O氏のパンへの思いを強く感じた。 入っていきなり、天然酵母の生地以外のすべての仕込みを任された。失敗の連続。 仕込んだ生地を捨てざるを得ないことも多かった。O氏は、「なんで失敗したか自分で考えろ」と言うだけだった。 「Oさんは本気で自分を育てようとしている」と感じ、嬉しかった。 O氏には「2年間で独立できるようになりたい」と伝えていた。 繁盛店がある商圏への出店を決意 ベーカリーBで働くようになって1年半が過ぎたとき、O氏から「こういう物件があるんやけど、どうや」と言われた。行き帰りの車から見ていた物件のことが頭をよぎった。「その場所ではやりたくありません」とO氏に言った。思い切って「実はほかにやりたい場所があるんです」と言ってみた。O氏はいっしょにその物件を見に行ってくれた。 「ええんちゃうか。食ってくぐらいできるやろ」とO氏は言った。300メートルと離れていない場所に強力な繁盛店がある。O氏の言葉が嬉しかった。挑戦者となることが決まった。 2000万円を投資。借り入れは1650万円 国民信用金庫から800万円、JAから850万円を借り入れた。自己資金は、350万円。借り入れ先はかなり探した。中小企業向け新規開店のための融資も当たったが、「営業経験がない」と断られた。 国民信用金庫とJAに対しても、生命保険証書や妹の預金通帳など、担保となり得るものはすべて提出した。 その物件は他からも引き合いがあり、すぐに手付を打った。4カ月間、合計約100万円の空家賃も払った。 投資額は約2000万円。内装などに約900万円、機械などに約1100万円をかけた。 ミキサー、オーブン、フリーザーは新品を購入。オーブンは同じ機種でも1台ごとに癖があるので、中古だと少し不安だった。ミキサーはケンパー製を導入した。ケンパーの中古は調達できなかった。 「トレーやトング、食型、天板など小物類に意外とお金がかかる」と思った。 ログハウスのような店舗にしたかった 大嶋さんは、ログハウス風の店舗を持ちたいとずっと考えていた。パイン材を使いたかった。床は一面パイン材を貼った。陳列棚やレジなどにもパイン材を多用。写真で見たログハウスにあった、木の彫り物も作ってもらった。壁面にもパイン材を使いたかったが、内装業者に「そんなしたらウチつぶれるわ」と言われ、あきらめた。壁面を除いては納得できる店舗になった。 ただ、誤算もあった。床面に貼ったパイン材は、予想以上に来店客が多かったせいもあり、痛みが激しかった。ハイヒールで踏むとへこんでしまい、そこに油汚れがたまってしまった。品揃えは、ベーカリーBとまったく同じにした。大嶋さんにとってそれがすべてだった。しかし、少しだけ配合を変えたパンもあった。 オープン当日はパニック状態 1999年7月、「ふるーる」がオープン。開店の準備で2〜3カ月製造から離れていたせいか、開店の緊張のせいか、体が動かなかった。手伝いに来てくれたパン職人から指示を求められても、逆に「何をしたらいいか」と聞き返してしまう状態だった。 人は極力使わないという考えだったので、スタッフはほとんど身内で固めた。 親戚も含めて開店当日は大勢の人が応援に来た。 レジも混乱した。経験がなかったので、レジがピーッとなっただけでパニックになった。 「とにかく大混乱だった」と大嶋さんは苦笑いする。それでも、30万円程度の売上げがあった。 その後、7万円で底を打ち、それ以降は着実に伸び続けている。 オープンの2カ月後、販売とサンドイッチの製造を担当していた久美子夫人が妊娠していることがわかった。しかし、生まれる直前まで店に出た。生まれてから3カ月後には仕事に戻った。大嶋さんの母、カヅヨさんの力も大きかった。「嫁と母親の力がなかったら、絶対にここまでやってこられなかったと思います」と大嶋さんはいう。 現在は平均日商約25万円で落ち着いているという。 |

| 右腕が動かなくなった。でも、パンを作り続けた。 - ナチュールの澤田友行さん | |
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オープンの2週間前、右手がしびれ始めた。最初は手だけだったのが、日がたつにつれ、腕、二の腕、肩へとひろがっていった。右腕がほとんど動かなくなった。
左腕でパンを作る訓練を始めた。 男としての生き方を教わった 長野県松本市のベーカリー、ナチュールの澤田友行さんは、神奈川県のベーカリーHで、上司だったパン職人のH氏に強い影響を受けた。 「技術はもちろんですが、男としての生き方みたいなものを教わったような気がする」 澤田さんは、根っからのパン職人だ。技術はH氏から叩き込まれた。 ベーカリーHの次に働いたベーカリーKは、澤田さんにとって物足りなかった。常にいいパンを作りたいと考えていた澤田さんに、社長から材料原価などについての注文がついた。澤田さんは反発した。 「自分を慕って、入ってきた職人たちにいいパンを作らせてやりたい」という思いもあった。 パン作りと経営は違う? 澤田さんは、独立を具体的に考え始めていた。ベーカリーKで販売スタッフとして働いていた愛美さんと結婚し、新婚旅行の土産を恩師のH氏に届けに行った。H氏は、ベーカリーHを辞め、独立の準備中だった。骨組みができた状態の店舗と、店舗の図面を見せてもらう。澤田さんの独立への思いはさらに深まった。 長野の父親が倒れた。妻と子供とともに故郷に帰り、ベーカリーを開くことになった。ベーカリーKの社長に辞表を出した。社長は「自分でやるのか」と言った。 「はい」とうなずいた。社長は「パンを作ることと経営は別物だぞ」と諭した。 独立してみて、そのとき社長が言ったことが少しわかった気がした。 使われていたときは、給料日が来るのが遅かった。今は給料日があっという間に来てしまう。 その違いがベーカリーKにいたときはわからなかった。 「時間がたって理解できることもあるんだ」ということを、後輩に伝えていこうと思った。 独立資金には恵まれた 独立資金には恵まれた。父親は郵便局職員、母親は銀行員で、「息子さんがベーカリーを開くときは融資しますよ」と言われていた。土地はすでにあった。施工業者に、雑誌などを見せて、「ベーカリーHのような店舗にしたい」と伝えた。 最初東京の業者に依頼して途中まで進行したが、長野と東京の行き来が不便で、長野の業者に引き継いでもらう。 売り場と製造スペースの仕切り方や、入り口の向きなどについて多少注文をつけたが、比較的スムーズに店舗が完成した。 製パン機械は、あるメーカーのものと決めていた。製パン製菓機械の展示会、モバックショウで見た機械だ。 ベーカリーKでも使っていて、優れた機械だということがわかっていた。 オーブン、ホイロ、冷蔵庫、冷凍庫は、そのメーカーのものを購入した。リバースシーターは、外国製のものを導入。ミキサーは中古品を入れた。 機械類に約1500万円、建物と内装などに約1500万円をかけた。 ついにオープン。でも右腕が動かない オープンの2週間前、右手にしびれを感じた。最初は「ちょっと疲れているのかな」としか思わなかった。しかし、しびれの範囲が徐々に広がって、ついに肩まで到達した。右腕がほとんど動かなくなってしまった。何件もの医者を訪ねたが、原因がわからない。 1997年、ついにナチュールがオープン。しかし、右腕はほとんど動かなかった。丸めの作業は左手だけ。包丁も左手で持った。右手でもスケッパーやあんベラを持つことはかろうじてできたが、すでに、左手だけでパンを作っていこうと腹をくくっていた。 リピーターがつき始めた 初日は14万円の売上げがあった。「まあまあだ」と思った。予想した通り、売上げは落ちたが、落ち方が予想を超えた。午前中の来店客が1人、午後の来店客が11人で、売上げが1万円という日もあった。右腕は相変わらず自由にならない。 澤田さんは妻や子供のことを思った。自分の子に生まれたことが不憫に思えたこともあった。 それでも、おいしいパンを作りたいという強い思いは消えなかった。澤田さんはパンを作り続けた。 あるとき、長野県の雑誌が取り上げてくれた。マスコミの力を実感する。徐々に売上げが戻り始めた。それまで店の存在を知らなかった人が来店し、リピーターになってくれた。 いつのまにか右腕が動くようになっていた。 1999年、JR松本駅前にサンドイッチの店を出した。ナチュールのパンで作るパン粉を使って、おいしいトンカツを作る店があったことがきっかけだった。その店のトンカツを使ったカツサンドを販売したかったのだ。 本店で焼くパンを使って、カツサンドやゴマ食パンのクリームチーズサンドなどを作り販売した。サンドイッチ以外のパンも売った。 昼食を買い求める客などで賑わうようになり、繁盛店になった。 愛美夫人は「ウチの人は、お酒を飲むわけでもないし、ストレスがたまって、相当つらい時期もあったと思います。でも信じ切っていましたし、絶対に大丈夫だと思っていました」と言った。 |

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