パン作りと洋菓子作りを深く追求した日々。 - サ・マーシュ 西川功晃氏に聞く(前編) - ブランスリー電子版

2026年10月21日に公表されたPHPの脆弱性(CVE-2026-109618、CVE-2026-109619)については、いずれも対策を完了しています。

ブランスリーアーカイブ(創刊号からの全記事)
記事の閲覧
<<戻る写真をクリックすると拡大写真が見られます。
インタビュー/2013年4月号

2023年11月18日から、発行から1年を経過した記事は、会員の方以外にも全文が公開される仕様になりました。


パン作りと洋菓子作りを深く追求した日々。 - サ・マーシュ 西川功晃氏に聞く(前編)
サ・マーシュの西川功晃氏
 パン業界で「コムシノワ」といえば、鮮やかな色彩が乱舞する芸術性に富んだパンを、誰しもが思い浮かべるだろう。フレンチレストランを母体として、ブーランジェリーやパティスリーなどを展開するコムシノワグループのオーナーで、腕利きのフレンチシェフでもある荘司索氏が思い描く理想のパンを、具体的な形にして表現し続けたのが、現在は神戸市中央区で、ベーカリー「サ・マーシュ」を経営する西川功晃氏だった。しかし、西川氏があれほどまでの創造力を発揮できるようになるまでには、パンと洋菓子に正面から向き合い、必死に格闘を続ける日々があった。

サ・マーシュ
兵庫県神戸市中央区山本通3-1-3、電話078-763-1111



菓子を希望したがパンにまわされた

――西川さんがこの世界に入ったのはどういうきっかけだったんですか。
西川 僕はもともとサッカー小僧で、高校の時の友達には、サッカーで有名になった人もいます。高校の練習にも実業団のスカウトの人が来ていました。僕が行った高校はサッカーが強かったんです。当時はまだJリーグはありませんでしたので、周りはみんなその後、実業団に入ったりして、サーカーを続けていきました。
 しかし、僕だけはなぜか飲食に興味を持ったんです。それはたまたま兄が料理人をやっていて、レストランやお菓子屋さんを見てまわる機会が多かったからかも知れません。職人として手に職をもつということがすごく魅力的に感じられたんですね。
 それさえあれば、一生食っていけるだろうと思いましたし、もし、サッカーを続けていたら、怪我やアクシデントで、いつ潰れるかわからないという不安もありました。若いうちしかできないという不安もありましたね。
 最初はお菓子がやりたくて、広島アンデルセンという会社に入ったのですが、なぜかパンの部門にまわされてしまいました。僕としたら納得がいかなかったので、会社に抗議をしました。そしたら、人事の人は、アンデルセンという会社は、お菓子の仕事もパンの仕事もあるけれど、パンの方が仕事としての幅が広いし、パンで数年やって、そののちにお菓子部門に移ることを考えたらいいと言われました。
 しかし、半分パンを馬鹿にしたような気持ちがあったので、無理やりパンの厨房に入れられたような気がして、不満に思いながら仕事をしていました。
 ところが、パンの仕事は、日々失敗の連続で、悔しくて、抜けられなくなってしまったんです。失敗ばかりして、みんなを困らせて、こんな状態で、お菓子がやりたいなんて言ったら、「パンができないから、お菓子の方に行ったんだろう」と言われそうだったし、なにより自分がすごく歯がゆかったですね。いつか見返してやろうという気持ちでいっぱいになっていました。いつのまにか、パン作りの仕事に没頭していました。
 そうしているうちに、ちょうどフランスで仕事をしていた僕の兄から「おまえ、お菓子をやりたかったんだろう。もしそうなら、パリを見なくては駄目だ」と言われたんです。ちょうど30年ぐらい前の話ですが、その頃の日本の洋菓子はまだ全然駄目だったんですね。「モンブラン」といったら、黄色いソバみたいなものがのっているお菓子で、エクレアはチョコレートをコーティングした太いお菓子、ぐらいの認識しかありませんでした。
 パン作りの仕事を必死でやっていましたが、その間、お菓子への思いはずっと持ち続けていました。
 ――それで、フランスには、行かれたのですか。
西川 入社して数年しか経っていない社員がそんなことをお願いしても絶対に無理だろうとは思ったのですが、上司に「パリに行かせてください」と申し出たんです。
 たまたま、創業者の高木俊介さんとお話しする機会ができて、僕の当時の洋菓子についてのいろいろな思いをとことん話すことができたんですね。さらに、自宅にまで連れて行かれて、そこでも色々言いたいことを言わせてもらったんです。
 そしたら、そのあとすぐに「2週間の有給をやるから行ってこい」と言ってくれたんですね。アンデルセンに入って3年目のことだったと記憶しています。自分でもびっくりしてしまいました。



菓子をやるために東京に出てきた
西川功晃氏は現在、神戸市中央区に「サ・マーシュ」とういうベーカリーを開いている。厨房で文夫人と
西川氏は、3月6日から9日までインテックス大阪で開催されたモバックショウ2013では、製パン講習会の講師を務めた
――パリのお菓子はどうでしたか。
西川 パリでお菓子をたくさん見て、大きなショックを受けました。そして自分がやるのであれば、洋菓子をただやるのではなく、「デセール」(デザート)をやりたいと思ったんですね。プチガトーと焼き菓子を売るのではなく、お皿に仕上げるデセールを作る人になりたいと思いました。パリでは、レストランにもたくさん連れて行ってもらったのですが、最後にすごく華やかな皿盛りのデセールが出てくるんですよね。それがすごくおいしくて、そしてすごくアーチスティックだったんです。芸術的な要素がすごくあって、自分もそういうデセールを作る人になりたいと素直に思いました。
 帰ってきて、アンデルセンの製菓長に「普通のお菓子屋さんではなくて、デセールを作る人になりたいんです」と相談したら、笑われました。「デセールというのはお菓子の中のひとつのジャンルだから、デセールを作るだけの仕事はないよ」と言われました。それならまずは、お菓子屋さんにならなくてはいけないと思い、東京の青山アンデルセンのお菓子部門に異動したいと願い出たんです。24歳のときでした。
――お菓子をやりたいという思いが相当強かったのですね。
西川 そうですね。広島アンデルセンは、パン部門とお菓子部門の厨房が隣り合う形であったので、僕はパンの仕事が終わったら、お菓子の厨房に行って、手伝っていたんですよ。それでお菓子部門の人とも仲良くなっていました。青山アンデルセンのお菓子部門に行きたいと申し出たことを先輩に話したら、「パン屋さんでやっていた人が、お菓子部門で青山アンデルセンに行くなんていうことはまずないよ」と言われてしまいました。でも、なぜか青山アンデルセンのお菓子部門への配属が決まったんですよ。
――東京はやはり違いましたか。
西川 お菓子の製造の仕事が夕方4時ぐらいに終わるので、毎日のように、東京のお菓子屋さんを食べ歩きました。もう必死でしたね。1軒でお菓子を2個ぐらい買って、寮に帰って、みんなで試食しました。最初はみんな食べてくれていましたが、そのうち僕以外は嫌になってきてしまいました。当時の東京の洋菓子店はほとんど制覇したと思います。そして、その中で、「強烈やな」と思った洋菓子屋さんが1軒ありました。それが「オーボンヴュータン」でした。
 卸しかしていなかったところに、「オーボンヴュータン」という名前の、小売もするきれいなお店を出した頃に、僕がちょうど東京に出てきたんですね。
――フランスで見たお菓子のアーティスティックな部分があったということですか?
西川 もう、フランスそのものでした。何でこんなことになっているんだろうと思って、めちゃくちゃショックでした。自分の職場で、青山アンデルセンのお菓子も、もっとフランス菓子の要素をとり入れた方がいいと言い続けたので、「若いのが、ちょっとよそを見て来たからといって、わあわあ言うな。そんなに簡単に変えられるわけがないだろう」と怒られてしまいました。しかし、「そんなに言うのならやってみろ」と、その年のクリスマス用のアントルメのひとつを作らしてもらったんです。そして、それをクリスマス用のメニューに入れてくれたんです。まわりは、クリームでナッペしてあって真っ白なんですが、中のスポンジにぶどうのシロップをたっぷりと染み込ませて、スポンジを切ったときにシロップがじわっと出てくるようにしてありました。そして、上にぶどうを飾りました。とてもシンプルなアントルメだったんですが、見事に売れませんでした。
――それから、西川さんの洋菓子はどのように展開していったのですか。
西川 当時、会社の寮が西麻布にあって、「ル・スフレ」という洋菓子店の永井春男オーナーシェフにお世話になっていて、あるとき、オーボンヴュータンでショーケースの中の製品をじっと見ていたら、隣から僕を呼ぶ声がして、ふと見たら永井さんだったんですね。永井さんはオーボンヴュータンオーナーシェフの河田勝彦さんと話していて、その時に僕を河田さんに紹介してくれたんです。そして僕がとっさに「ここで仕事がしたいんです」と言うと、河田さんは「いいよ。いつから来れる」と言ってくれたんです。
――河田さんは、西川さんに何かを感じたので
しょうね。
西川 いや、そうじゃないんですよ。永井さんは、オーボンヴュータンのオープニングスタッフの1人でもあり、一番仲のいい友達で、河田さんにとってすごく大切な人で、その長井さんが紹介してくれた人ならいいよ、ということだったんです。オーボンヴュータンの近くにアパートを借りるために、不動産屋をまわったときに、「ひょっとしたら、オーボンヴュータンで働くの」と聞かれたので「そうです」と答えると、「いやー、よく決まったね。あそこで働きたくて、この近くにアパートを借りて待っている人はたくさんいるんだよ。決まって本当によかったね。おめでとう」と言われました。そこで初めて、オーボンヴュータンで働くことは大変なことなんだと知りました。



オーボンヴュータンから再びパンの世界へ
3年前にオープンした「サ・マーシュ」では、客とスタッフが同じ方向からパンを見て話ができる独特の販売スタイルを採用している
――オーボンヴュータンでの仕事はどうでしたか?
西川 ぴりぴりした中で、同僚がすべてライバルで、戦いの連続のような職場でした。僕は永井さんの紹介ということもあって、青山アンデルセンで1年しか洋菓子の経験がなかったのに、最初から厨房でほかの職人と一緒に仕事をする立場になっていたんですね。引継ぎの人が、その後福岡で有名な洋菓子店を開いた人でした。初日に「見てていいよ」と言われたので、「それでは1日見させていただきます」と言って、ずっと見せていただきました。
 そして、2日目に、「じゃ、やってくれる」と言われて、「何からやりますか」と訊いたら、「え、昨日見てなかったの。じゃ、やらなくていいよ」と言われて、それから一切何も教えてくれませんでした。なので、引継ぎの仕事は一切させてもらえなかったですね。結局、手伝い的な違う仕事をずっとしていました。
 厨房の中では、いつも激しい戦いが繰り広げられていて、仕事がちょっとでも遅れたり、手を出すのを躊躇したりしたら、横から別の職人が入ってきて仕事をとられてしまい、即座に自分の仕事がなくなってしまうんです。自分が天板にクッキーの生地を並べる役だと思って、天板に生地を並べていても、別の職人がその脇に天板を置いて生地を並べ出して、競争になるんです。その競争に負けたら、その仕事はとられてしまいます。仕事の奪い合いで、みんなが敵でした。だから、厨房で喋ることはほとんどなかっし、笑ったことは一切なかったですね。それくらい、みんな神経がぴりぴりしていました。
――想像を絶する厳しさですね。
西川 もう、ずたずたになりました。十二指腸に穴が開きました。半年ぐらいたった時に、河田さんが気を遣ってくれのかどうか、僕をショコラティエに起用してくれたんです。毎年、シ
ョコラティエを職人の中から2人選んで、別室で、チョコレートの仕事をするんですね。でも、一緒にショコラティエの仕事をした先輩がまた厳しい人で、チョコレートの型をコットンの布で拭くのですが、そのときに「きゅっ」という音が出ないと、ちゃんと拭いていないととられてしまい、めちゃくちゃ怒られるんです。だから、その音を出すのに必死になりました。要するに型をきちっと拭かないと、型から抜いたときにチョコレートの艶が出ないんですね。でも、ショコラティエとしてやらせてもらって本当にいい勉強になりました。
 そうこうしているうちに、今度はパンの方がすごく気になり出したんです。お菓子屋を見てまわるよりも、パン屋を見てまわる方が多くなってきていたんですね。
――それは、どうしてなんでしょうか。
西川 どうしてなんでしょうかね。パンを作っているときは、お菓子が気になって仕方がなかったのですが、お菓子をやり出すと、今度はパンが気になってしようがなくなってきたんです。いつの間にか、バゲットをよく買うようになっていて、洋菓子をやっていて、甘いものばかり食べていたせいか、毎日バゲットを食事にするようになって、自然と食べ比べるようになっていました。ここのバゲットはおいしいな、とか、ここのバゲットはそうでもないな、とか、味の違いが見えてきたんです。
 そんなときに、たまたま、兄が銀座のビゴの店のバゲットを買ってきて食べさせてくれたんです。食べた瞬間に目から鱗が落ちました。「こんなバゲット食べたことないわ」と思いました。こんなに味の違いがはっきりわかるということは、配合が根本的に違うのではないかと思って、もういてもたってもいられなくなって、ビゴの店に入らないことには、収まりがつかないような状態になってしまったんです。パンは、自分の中ではもう完璧にマスターしたと思っていたのですが、ビゴの店のバゲットは「よう作らんわ」と思ったんです。
 河田さんに「もう一度パンに戻りたいんです。ビゴの店に行きたいんです」と相談したら、「パンの世界に行って大丈夫か」と色々心配していただいたのですが、結局「いいよ」と言っていただけたんです。
――ビゴの店に入ってみて、どうでしたか。
西川 バゲットの配合は、全然特別なことはなくて、粉と水と塩だけのシンプルな配合でした。工程も特別なことは一切ありませんでした。それなのに、どうしてこんなに違うバゲットができるんだろうと、考え続けましたね。それはやっぱりビゴさんという人の本能みたいなものから生まれてくるパン作りということだと思いました。一応配合も工程も決まっていて、その日の気温や仕込み水の温度などの細かなことも考慮して、きめ細かに管理されたパン作りだったのですが、それだけでは片付けることができないんですね。ビゴさんは、仕込みから焼き上がりまで、パン生地の状態を常に見て作業をしていました。生地と対話しながら、生地の声を聞きながら、仕事をしていました。生地が風邪をひかないように、生地を寒いところに置くなとか、暑いときには涼しいところに置け、とか厳しく言っていました。パン生地に対する動物的本能みたいなものが大切なんだなと思いました。
――洋菓子作りとパン作りを比べるとどうですか。
西川 洋菓子の場合は、厨房の気温や材料の温度管理など微妙なところも含めて決められた配合と工程で厳格に作っていけば、間違いなくおいしくなりますが、パンの場合は、そこまで管理しても、不確定な要素がさらにあるんですね。発酵が絡んできて、生地が成長していく過程で、洋菓子の場合よりも、数多くの要素が絡んでくるんだと思います。生産効率を考えて、暑い所で生地を速く発酵させようとして、ビゴさんによく怒られました。生産性が優先して、効率のためのパン作りになってしまうことがあるんです。パン生地のためのパン作りを考えろと、いつもビゴさんから言われていました。
 パン作りは子育てと同じなんです。親の考えを一方的に押し付けては駄目なんですね。そういう意味では、パンは、育てるという感覚で、洋菓子は、素材を組み立てるという感覚だと思いますね。
――西川さんの中で、パン作りの要素と洋菓子作りの要素が、ダイナミックに融合して、それまでになかった新しい世界が花開したのが、コムシノワでのパン作りだったのだろうなと、これまでのお話を聞いていて感じました。
西川 まったくその通りでしたね。(次号へ続く)
   ◇
 次号では、西川氏の才能が一気に花開いたコムシノワでの様々な出来事と、3年前にオープンしたベーカリー「サ・マーシュ」での展開などについて、語っていただきます。



原価計算女王
原価計算女王

2023年11月18日から、発行から1年を経過した記事は、会員の方以外にも全文が公開される仕様になりました。

今月の公開記事

  1. POLINの高性能オーブンを日本市場へ 。450℃の焼成力と緻密なヒーター制御 - スズキ産業の下河拓磨社長
  2. 見やすい売り場と旬の味で、地域が誇れるベーカリーへ - アリマベーカリー
  3. 「ちいかわ」の世界観を表現したパンと店づくり - ちいかわベーカリー
  4. 掲載から1年を経過した記事は、会員の方以外にも全文を公開しています。
    ブランスリーアーカイブ
ブラ立ち読み
(記事の無料メール配信)
詳細はこちら