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インタビュー/2016年5月号

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明治45年の創業以来の生活に溶け込むパン作り - ニコラス精養堂の太田米藏社長
 東京・世田谷区にあるニコラス精養堂(電話03‐3410‐7276)は明治45年(1912年)創業の老舗ベーカリーだ。発酵法も酒種からイーストへの変化の時代を通じて、パン作りの違いを肌で感じてきた。昭和5年(1930年)には陸軍御用達となり、軍隊にもドーナツ、シベリア、饅頭を納めた。戦中戦後の食糧配給時代には、当時主流のコッペパンを早朝5時から販売した。「良いものは出来るだけ続けるべきだ」と話してくれた父親の教えを守り、今も経営に携わる今年94歳になる太田米藏社長に話を聞いた。

人気の「ニコラス食パン」。袋のマークは創業時からのもの
伝統の味の「松陰饅頭」。卵は黄身だけを使用してコクを出した
ルヴァン種を使った「くるみとクランベリーとクリームチーズのフランスパン」。クリームチーズがたっぷり
お薦めの「メイプルメロンパン」。包み込んだメイプルバターが中で溶けてしっとりするように工夫している
胡桃とレーズンが入った昔ながらの「黒糖パン」
販売の中心はドーナツ、シベリア、饅頭

―――社長は90歳を超えていらっしゃる。
太田 はい、大正11年(1922年)生まれです。今年で94歳になります。
―――すると、パン職人になられてもう何年ですか。
太田 小学校を卒業をしてすぐ修業を始めましたから、80年を過ぎましたね。今は現場には出ませんよ。若い人に任せています。優秀な職人が揃ってますから。
―――社長は80年間、そして会社としては100年間、世田谷のこの地でパンを作ってきたのですね。
太田 創業時は青山です。今の港区のミルクホールでパンを焼いていました。ところが、大正12年(1923年)にご存知の関東大震災がありました。店が大きな被害を受けました。それで、今の世田谷に移転したんですよ。父親が、ここなら地盤もいいし、と言って移ってきたそうです。翌年商売を再開できました。今年で創業104年になりますけど、ここに来ても92年。パン屋では古いほうだと思います。
―――戦前のお客さんは、やはり近所の方々が中心ですか。
太田 近所の人といえば、まあ、そうですね。当時のことで店の周辺には軍事基地が多くてね。兵隊さんがよく買いに来てくれましたよ。そんな関係もあって、昭和5年(1930年)には陸軍御用達になりました。正直、お陰さまで、戦前もいい商売が出来ました。
―――どんな種類の商品が売れたのでしょう。
太田 当時はドーナツ、シベリア、饅頭が稼ぎ頭です。カステラは浅草の映画館や寄席でよく売れました。外交の担当者が売り子として販売していたんです。

一生に一度は食べたい食パン

―――修業を始めた頃には、既にイーストを使っていたんですか。
太田 私が小学生の頃は酒種を使っていましたが、その後イーストに切り替えました。パンの出来が違いましたよ。
―――違いというと。
太田 イーストが出回るようになって副材料の塩だけを入れても美味しいパンが作れるようになったんです。昔はフスマごと粉に挽いてパンを作っていましたから。塩は高価でしたから使わないパン屋も多かったのです。でも2%塩を配合するだけで、砂糖もバターも入らなかったのに、美味しいと言ってもらえました。皆お腹を空かしていた時代でしたからね。
―――材料は十分に無かった。
太田 陸軍の御用達になっていたので、太平洋戦争中に食糧配給の時代になっても、材料は確保できていました。例えば砂糖は、世田谷の他のパン屋などは3〜5キロしか手に入らなかったけど、私どもは30キロも仕入れていました。もちろん、軍に卸す分もありました。
―――配給の時代は販売の数に限りがあったんですよね。
太田 配給のパンは1人コッペパン3本までしか買えなかったのですが、よく売れました。昼飯を食べた後すぐに寝て、午後4時に起きてパンを焼き上げたんです。そして、早朝5時から販売したのです。10時には売り切れました。
―――コッペパンが主力ですか。
太田 そうです。庶民はコッペパンですよ。ジャムを挟んだ品物が一番売れました。食パンも作っていましたが、食パンは金持ちのパンでした。余程の金持ちじゃないと買えなかったんです。店でも1日に10本程度売れるだけ。食パンにフレッシュバターを塗って、ハムを挟んで食べるんです。普通の人には夢の食べ物ですよ。付近の工場で働いていた人の中には「一生に一回は食パンを食べたいね」と言う人もいたくらいです。

パンと和洋菓子を販売するニコラス精養堂の外観
100種のパンと洋菓子を揃える店内
50周年記念セールの写真
父の遺志を継いで店名を変更

―――戦後もしばらくは配給の時代でした。
太田 中心はやはりコッペパンです。配給制度が終わってからは、あんパンがよく売れました。それから、ジャムパン、クリームパン、ロールパンが売り上げを支えてくれました。
―――現在の店名に変更したのは創業50周年(1962年)のころだそうですね。
太田 その頃、カタカナの名前が良いのではと周りから言われました。確かに、当時カタカナ名に変更した製パンメーカーの売り上げがグーンと上がりました。そこで、父親の洗礼名であるニコラスを精養堂の前に加えました。
―――お父さまの洗礼名を。
太田 父は「世のため人のためにお金は使うものだ」と常々言っていました。また、「良いことは出来るだけ続けるべきだ」とも語っていました。その気持ちを受け継ぎたいとの思いがありました。
―――では、今でもお父さまの考え方が経営に生かされていると。
太田 店には100種類のパンがあります。それらは、結果としてお客様に選ばれた商品です。大正14年に賞を受けた松陰饅頭は卵の黄身と蜂蜜、水あめで作られた伝統の味です。黒糖パンやシベリアも懐かしい味の一つです。小麦の香りを引き出したニコラス食パンも看板商品です。これらの商品が長い間作られてきたのは「お客様のために」をいつも考えてきた結果だと思っています。
 今後も、子供たちが食べやすいようにパンを小型にするなど研究を重ねるつもりです。
―――卸しもあるようですが。
太田 保育園は30か所に、週に2〜3回提供しています。他に世田谷区内の2つの大学にも卸しています。卸し分を焼き上げる日は窯の空く暇がないほどです。

良質な商品は真摯な態度から生まれる

―――100年間の積み重ねが現在までつながっていますね。
太田 長く続ける秘訣はありません。父親の起ち上げたパン屋を一生懸命に続けてきただけです。お客様のことを考えて、従業員には安価な材料を使わないよう伝えています。
 それと、余計に儲けようとすると良質な商品作りは出来ません。「良いことは出来るだけ続けるべきだ」という父親の言葉を忘れずに、これからも地域の皆様の生活に溶け込んでいけるように、価格の維持、材料の吟味、丁寧な商品作りに取り組んでいこうと思います。


編集部からひとこと:
コラス精養堂は、明治45年の創業と、老舗中の老舗です。戦前戦中のパンをめぐる日本の状況などもわかり、とても興味深い記事になっています。


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